木曜日は寒かったけれど、昨日から気温が少しあがって空も晴れ始めました。
そうなってみると、これまで寒いので見ないふりをしてきた部屋のあちこちの汚れが目に付いて、掃除をしたり、アルコールスプレーを吹き付けたり。クローゼットのカビ避けのためにピレパラアースもタオバオで注文。
どうしてかわからないけど、私は春になって空がうらうら晴れ始めると、なんとなくうつっぽくなるんです。自覚しはじめたのは10年以上前から。家でぼうっとしていると、さらにそういう気分になるので、もう少ししたら買い物にでも行こう。
木曜日は寒かったけれど、昨日から気温が少しあがって空も晴れ始めました。
そうなってみると、これまで寒いので見ないふりをしてきた部屋のあちこちの汚れが目に付いて、掃除をしたり、アルコールスプレーを吹き付けたり。クローゼットのカビ避けのためにピレパラアースもタオバオで注文。
どうしてかわからないけど、私は春になって空がうらうら晴れ始めると、なんとなくうつっぽくなるんです。自覚しはじめたのは10年以上前から。家でぼうっとしていると、さらにそういう気分になるので、もう少ししたら買い物にでも行こう。
朝、出勤する時には雪だったが、昼には晴れ間もでてきた。
家に帰ってから、久々に窓を開けて掃除をしたりしたが、また曇ってきた。
スマホの天気予報では、来週は今週よりもかなり暖かくなるらしいが、実際はどうなるのかわからない。
学校の授業も忙しくなりそう。
今の学校はエアコンで暖房しているが、とても寒い。
今日は雪が降るかもしれない。天気予報では、小雪だそうだ。
蘇州ではコロナの陽性者がまだ出ているようで、蘇州に帰った学生は学校に戻ってこられない。そこで、学生たちに頼んでスマホで中継してもらったが、やはりあまりうまくできないようなので、今日、教室のパソコンにカメラをつないで中継する方法を教えてもらった。明日からそれで中継するつもりだけど、うまくできるかな。
〇日本人は高校までに3000字くらいの漢字を学ぶらしいが、字は知っていても、意味まで理解しているかどうかは怪しいものだと思う。そういうことは、子どもの名づけからも見て取れる。わたしはうちの子たちの名前を付けるときに占いなどは気にしなかったが、ママ友つきあいをするうちに、画数を重視する人が意外と多いことに気が付いた。そういう人たちは、画数を合わせるために字の意味も考えずに「太」を「汰」で置き換えたり、「美」を「未」で置き換えたり、「希」を「稀」で置き換えたりするのである。「ねがい」の意味を表すために「稀」という字を使ったのだという話を聞いたこともあり、「稀」にそんな意味があるのだろうかと思ったこともある。
手がかじかんでキーボードが打てないので、今日はここで終わり。ここは南極みたいに寒い…。
すっかり夜更かし生活になってしまったが、明日から新学期なので6時20分に起きて学校に行かなければならない。また、何人も帰省先でコロナが発生したので学校に戻れないという連絡があり、どうしたらいいか連絡をとりあっている。
同じクラスの子にスマホで中継してもらうというのが、一番簡単な方法なのだが、前学期に前のほうの席の子にスマホでとってもらっても、音声がうまく拾えないとか、電波の調子が悪いとか、なかなかうまくいかなかったのだ。中国人の先生に問い合わせたら、教室にもっとマシにとれる設備があるらしいのだが、その操作は教えてもらっていないし。
まあ、なんとなかなるだろうけど。
〇春月ねいさんのブログに書かれているような人は多い。
とりたてて言う必要もないのに、なぜわざわざそういうことを言うのだろうと思う。
時代は確実に変わってきている。早くそれに気づいたほうが本人の身のためだろう。
例の森喜朗もいままでみんなに受け入れられてきた(と思っていた)言動がいきなり炎上して晩節を汚してしまった。最後まで自分ではなぜ炎上したか理解できないようだったけれど。
〇そういえば、ピンクリボンのポスターの入賞作が炎上しているみたい。
最優秀賞の福引の絵も問題だけど、そのほかの「女性はひまなくせに、くだらないことにかまけていたり、ずぼらだったりして、何が重要か判断できない。だから乳がん検査をさぼっている」という先入観がみえみえの入賞作にも辟易した。そういうのを作った本人は気の利いたアイディアのつもりらしいところが、本当に胸糞わるい。選考委員に女性がいてもそういうのが選ばれてしまっているのは、あまりにもそういうことが多すぎて、神経がマヒしてしまっているからかもしれない。
〇昨日、例のH君の難関校合格が報じられた。その後、それを追いかけるように、彼の入選した作文に剽窃があったという報道もあった。
誰もが彼が実力で高校に合格したとも思わないだろうし、作文だって実力で入選したのかどうか疑わしいと思っているだろう。実はわたしは以前にその作文を主催者のHPで読もうとしたのだが、読み終わるまでに挫折してしまった。他の入選者の作文は題名からして興味をそそるものだったが、彼のは単に旅行記だし。中学生が書いたにしては整った文だと思ったが、起伏がないというかそういう感じ。主催者側だって、こういう子が応募してきて、扱いに困ったのではないだろうか。ま、大賞にするといかにも忖度だし、佳作あたりにでもしとこうか、みたいな。
とにかく、こうして彼は首尾よく作文コンクールで入賞し、難関校入学も果たしたのだが、
世の中の非難轟轟のコメントを目にすることはないのだろうか。普通の神経なら耐えられないような気がする。彼自身がどう思っているのかはわからないが、親のエゴの犠牲になっているんじゃないかと思う。まわりにいる取り巻きたちも、子どもの立場に立ってまともな判断ができなかったのだろうか。
〇それにしても「彼は中学では最優秀グループに属している」といっている報道もあった。そこまでくると、もう大本営発表みたいだ。こんなでいいんか、日本のマスコミ。
春月ねいさんのコメント通り、ここは寒くて暑くて湿気が多い土地だ。ほんとうに住みにくいけれど、ここで生まれて育った人は「ここは地上の天国だからね」と自慢げに言ったりする。
ある意味、北京に住んでいたほうが楽だったかもしれない。冬も夏も北京に住んでいたほうがずっと快適だ。わたしが頸椎を悪くしたのもここに引っ越してからだ。冬は東京よりも寒くて、じとじと雨ばかり降っている。しかし、北京にいても、じんわりと身体は悪い影響を受けると思う。北京の夏は長くて太陽がまぶしすぎる。なんとなく高齢者の中にしわくちゃな感じの人が多いのも、紫外線がきつすぎるからではないかと思った。それと紫外線がきつすぎると、白内障にもなりやすいらしい。食べるものもやたらと辛いし、北京にいると老化が早くなりそうだ。
〇春月ねいさんのブログを読んで思い出したことがある。
いまでも教育に手が届かない子どもってたくさんいるんだなと日本にいる時にも思ったのだ。
うちの日本の家はヤンキーが多い土地柄の場所にあるが、学園都市からそこへ引っ越してきたときに文化の違いをひしひしと感じた。
息子は成り行き上、そのまま地元の公立中学に行かせたが、娘は中高一貫の私立中学を受験させた。そうすると、ほかの母親だちが「女の子に勉強させたって、男に勝てないのに」と言うのである。どうして「男に勝つとか、負けるとか」そういう発想になるのか、まったく理解できなかった。どんどん変わっていく世の中で女の子が生きていくにはしっかり勉強でもさせて、自分で生きていく力をつけさせなければならないと思ったから、わたしは娘を私立に行かせたのだ。そのほか、なぜか子どもに勉強させたり、本を読ませたりすると、「むりやりさせている」と決めつけられるのも閉口だった。
思えば、そういう雰囲気の場所から逃れるためというのが、娘を私立にやった一番の理由だった。
今日は元宵節らしい。
朝、ゆっくり寝ていようと思ったが、ウィチャットのメッセージがひっきりなしに入る音で目が覚めた。「元宵節快楽!」…。そういえば、ここ数日、スーパーにたくさん湯圓が並んでいた。胸やけがしそうだし、太りそうなので、わたしは買わなかったが。それにイオンでは元宵節用の提灯も売っていた。あれはどんなふうに使うのかな。普通の家に下げるのだろうか。これで、お正月気分も一段落するのかも。
〇昨日はひさびさにスマホの天気予報が晴れだったので、朝からシーツだのなんだのを洗濯したが、おもったほど晴れなかった。この先、ずっと曇り。部屋の中に干した洗濯物が乾かないので、ずっとエアコンをかけている。なんだか一か月以上こんな感じ?うつっぽくなってきたような気がする。
いろいろとやろうと思っていたことがあったのだが、おととい新しいiPadが到着してから、これに時間を食われている。
新しいiPadと古いiPadを並べておくだけで同期ができるということなのだが、これがなぜか失敗。その後、何度かためしてようやく同期できたという表示がでたが、見てみるとアプリなどは同期できていなかった。しかたなく、ネットでスマホやiPadを同期できるアプリをパソコンにダウンロードしてそれで試してみたが、それもやってみたら、アプリの同期はできないのだった。そこで、一つずつ手動で新しいiPadにダウンロードした。VPNもどうやって使えるようにするのかすっかりわすれてネットで調べながらやっと導入。
しかし、あとで見てみると、最初の時にはアプリを同期できなかったのに、その後、新しいiPadにダウンロードしたアプリが勝手に古いほうにも入っているのである。なぜ?二つのiPadは当面使い分けようと思っているので、容量が少ない古いほうに入れなくてもいいアプリもあるのに。
というわけで、何がなんだかわからないが、二日間、気が向くたびにいじっていたら、なんとか使えるようになった。
普段から、わたしは何となくものを買わない。
考えてみたら、二か所からお金をもらっているので、節約する必要もないのだが、なんとなく買わない。便利そうだなと思っても、なくてもどうにかなっていると思うと何となく買わない。野菜を洗うザルだってこないだやっと買ったのである。
そういう性癖のせいで、日常的に不便をしている。
そこで、買えばいいのに、この冬、買わないできたものは何かを考えて買うことにした。
まずユニクロにいって、ボアのふわふわのパーカーを買った。もうこの時期なので半額だった。学校はとても寒いので、これまではコートを着てパソコンに向かっていたのだが、それもいやなので学校で着るために買っておこうとおもったのだ。ユニクロで物を買うことがこのところずっとなかったのだが、今日行ってみたら、レジがなくなっていて、自分で支払う機械で代金を払うようになっていた。画面の指示通りにしていくと、最後にスマホのバーコードを認識させろという指示がでてくる。スマホが差し込めそうな穴があったので、そこにスマホを指し込もうと思ったが、なかなか入っていかない。よく画面の指示を見たら、それはレシートがでる穴であり、スマホは別の場所にかざすのだった。ほんとうに知らない間に世の中はどんどん難しくなっていくのである。
それから、帰宅して、ネットで新しいIpadとカバーを購入した。こういうものは日本でも中国でもお店で買うと難しいことを言われそうで恐ろしいので、家でゆっくり調べながらネットで買う。私がもっているIpadは第五世代なのだが、いまはもう第九世代の時代になっていた。どれくらい違うのか来てみないとわからない。去年、中国に戻ってきた時に、あっさりとよく調べもせずに新しいスマホを買ったのだが、今回Ipadを買うのは、買おうか買うまいかずいぶん迷った。なんだかスマホはちょっとした買い物だけれど、Ipadは高額商品のような気がしていたからだが、考えてみたら、どちらもたいして値段は変わらなかった。
それと、携帯電話の契約も来月から5Gにすることにした。ほんとうは4Gと5Gがどう違うのか、本当に自分に必要なのかもわからないのだが、容量を増やそうとすると5Gのコースしか選べないので、しかたなかったのだ。
これで、少しは世の中に追いついていけるようになるだろうか。
昨日もぼちぼちと授業の準備。
なんだか思うように進まない。
PPTを作っても、「こんな内容じゃつまらない授業になるだろうな」と思ったりして、
また書き換えたり。
多くの先生が、毎年、日本語の初歩を教えているが、そういうのだったら楽だろうなと思う。
私はたまたま前学期は二外で初歩を教えたり、発音を教えたりしたけど、やはりいきなりやりなれないことを教えるといろいろとうまくいかないことがある。
それでまた今学期は上級へ。学校の要求通りにやるしかないのだけど、負担も多いし、授業の質も思うように上がらないし、前学期はさんざんだった。今学期も、他の先生が都合でできなくなった授業を肩代わりして、私がずっとやっていた科目は他の人に移った。
〇しかし、しかたがないから、前向きにやろう。
〇春月ねいさんと同じように、わたしも最新版がどれかわからなくなっていろいろミスをしてしまう。古いのと新しいのをどちらも広げて作業をしていて、古いほうに書き加えてしまったり。加えて、わたしはいらないものはすぐに捨てたいと思ってしまうので、さっさと削除して「あれ?」と思ったときにはもう遅いということがある。
本も同じで、一部の本を残してさっさと捨ててしまう。だから、電子書籍は好きなのだが、やはり紙のほうが付箋をつけてじっくり読んだりできて便利。電子書籍も付箋をつけたり、ラインを引いたりできるが、あまり活用できていない。
〇「雄獅少年」はガチなメッセージを持つ映画で、見ると「わたしもこんな心意気で生きなければ」と励まされるが、でも、実際は中国は日本以上の格差社会で、人生のスタート時点で大きく差がついているのが現実だ。だからこそ、この映画が感動的なのかもしれないが。
フィギュアスケートのアメリカ育ちの選手がバッシングされているが、それも、彼女のスタート地点が圧倒的に有利だったと多くの人が思ったからだと思う。つまり、彼女は「親ガチャ」大当たりの人なのだ。そういうことに対するうっぷんがそこここに渦巻いている。
昨日の晩、眠れなかったので、また曹禺の「日出」を見ていたが、そこでも冷酷な苦労人である李石清が同じことを言っているのだ。つまり「自分がごまをすっている奴らと自分の違いは、親ガチャがあたったか、はずれたかの違いだけなのだ」と。「日出」で描かれているのっていつの時代?たぶん、解放前で30年代くらい?
底辺であがく李石清のような者がさらに下にある人に対して冷酷だったりするところも、ものすごくリアルで、いまの日本でもありそうなことだ。
知らないうちに、世の中では春節の休みは終わっていたようだ。多くの会社などは7日から通常に戻ったらしい。買い物帰りに近くの出版社の前を通ったら、中で人が働いているのが見えたし、お店も開いているところが多くなった。
春節が終わったら、新しいiPadを買おうかと思っていたのだが、まだ買っていない。宅配便が来ないという噂を聞いたからだ。どこかでとまってしまい、トラブルになるといけないので、もう少し様子見。まだ古いのもちゃんと使えるから、急ぐ必要もない。
〇昨日は、同僚の先生から日本語で書いた文を見てほしいと言われて、それを半分直し、そのあと、「授業のしかた」の本を読んだ。そのあと、何日か前に一日かかって作った授業のファイルを間違って削除し、いろいろやってみたが復元できずにそれをもう一度作り直して一日が終わった。まぎらわしい名前のファイルがいくつもあって古いのと新しいのを間違えてしまった。そのあと、古いファイルと新しいファイルの名前をわかりやすく変えた。
というわけで、授業の準備は進まなかった。
昨日も少し授業の準備を進めた。
それから、「つまらない、つまらない」という娘と長電話して、
夜は中国のネットで「雄獅少年」を見つけてもう一度みた。劇場で一回見て気が付かなかったこともいろいろあって二回目もおもしろかった。前半はのどかな田舎でくすぶる冴えない少年たちが一念発起して獅子舞を習いはじめる話だが、後半で主人公の少年が仕事中に重症を負った父に代わって家族を支えるために大都会に出稼ぎにでたあたりからは現実の中国の社会の陰影を帯びたストーリーになる。このあたりから最後まではもう胸がいっぱいで、何度も泣けてきてしまう。
この映画では、いなかで何のとりえもなくいじめられていた少年が、魚屋の店主に獅子舞の教えをこい、にべもなくことわられてしまったときに、なにやらいくつも李白の詩を叫ぶのだが、映画館で見たときには、一つ目のものはわかったが、あとの二つが何だかわからなかった。そこで、昨日、家で見た時に動画をとめて調べてみた。
一つ目は「天生我材必有用」。これは有名。「天が生んだからには、わたしは必ず役に立つ人材なのだ」。
後の二つは、「仰天大笑出門去 我輩豈是蓬蒿人」と「長風破浪会有時 直挂雲帆済滄海」だった。つまり、「いつか自分も頭角を現す時がくるはずだ」ということが言いたいのだろう。少年が「この李白の詩がペテンだというのなら、どうしてこの詩句を口にするとき、血が湧きたつのか」と叫ぶと、魚屋の店主は胸を打たれて、彼らに獅子舞を教えることを承諾する。
すごい。普通の田舎の庶民の間でこういうやり取りが行われるということが。
中国でも多くの人が自分は古漢語は苦手だと言うが、やはりそれでもわたしたちが考える以上に多くの人の血肉となって実際に人生を支える強い力になっていたりするのだろう。
〇外の工事も春節前に終わったようだ。工事をしていた人たちに、わたしたちは眉を顰めていたけれど、あの人たちも映画の少年のように、故郷に残した家族のために重荷を背負って働いていたのだろうと思ったりした。
朝起きたら、大雪。
SNSをみると、中国のかなり広範な地域で雪が降っているようだ。
昨日、同僚の先生が、「他の土地から杭州へ宅配を送れなくなっているらしい」と連絡があった。陽性者が多いせいかもしれないが、特に正式な報道もないので、よくわからない。
〇昨日はイオンモールに行った。ついたらまず食事してお茶を飲みながら来学期の授業で使うテキストを読む。読み終わってから、映画「狙撃手」を見て、買い物して帰宅。今日、こんなに雪が降ることを思えば、昨日買い物に行ってよかった。
映画は張芸謀が監督したもの。抗美援朝戦争の人民志願兵を描いた映画。つい最近、中国で大ヒットした「長津湖」という映画もそうだった。「長津湖」のほうは陳凱歌監督。そちらは見ていないが、けっこう泣かせる映画らしく、こうした戦争映画にはめずらしく、大学の女の子たちも見に行ったらしい。
中国側の兵士たちは、熱い愛国心と固い友情で結ばれたういういしい若者で、そういう彼らが粗末な装備しかない中で懸命に戦い、一人また一人と犠牲になっていく。
それに対して米国側の兵士たちは、髭もじゃのおじさんたちで、腕はたつが、懸命に戦うのは軍法会議にかけられたくないからであったり、表彰されるためであったりする。
うっかり感動しそうになってしまうが、その手には乗らないぞ。大物監督がこういう映画ばかり続けて作っているのは、偶然ではなだろう。
〇まあ、日本もそうだけどね。ほら、あったじゃない?見てないけど、最近なくなったあの人が推奨していた映画とか。
自分でたてた計画では、明日から来学期の授業の準備をすることになっている。
一応、お寺のほうの授業だけ三回分のPPTを作った。あと、大学に出す授業の計画書(指南)も日にちの部分を残して作成した。
ずっと同じ授業をしている人もいるのに、前学期も今学期もわたしの授業は全部いちから準備しなければならなくて、ちょっと不満。
〇今日は食べるものもなくなってきたし、もう少ししたらでかけようと思う。iPadの充電が済んだら、それを持って出かける予定。出先で授業の資料を読む。家でだとついだらだらしてしまうので。
〇中国の方言ももう少ししたら、なくなってしまうのではないかと思う。
うちの夫の世代では、家族で話す時にはみんな方言で話しているが、若い子たちは地元の人たちと話す時にももうあまり方言は使わないらしい。聞けばわかるけど、自分からは使わないという。中高年の人たちの中には、標準語で話す時も南方なまりが強い人が多いが、若い人はすごくなまっている人は多くない。それでも、北京など北方に行くと、「南方から来たのか」と言われるそうだ。
娘から「OSKのチケットがきえた」という連絡が来た。
二月のOSK創立100周年の大阪公演が一部を残して中止になったらしい。調べてみたら関係者のうち23人がコロナ陽性だったとのこと。「調べてみたら23人」というところに驚いた。「調べなかったらわからないけど、調べたら多数でてくる」というのが日本の現状なのかも。街をぞろぞろ歩いている人を調べたら、高確率でコロナ陽性?
〇昨日の晩は「レポート書かなければ」と思いながら先延ばししているうちに、お酒を飲みだし、何もせずに深夜になり、一日むだにした。レポートは実質15分でちょろちょろっと書いた。まあ、いいや。そういう日があっても。
子どものころ、何かを読んでいてよくわからなかったことは、著者が方言で書いていたのが原因のこともあるのかもしれないといま思い当たった。
小学生のころ「別れのクリスマス」という映画をノベライズした本があって、「さらのノート」という言葉がでてくるのだが、いったいそれは「さらなのか、ノートなのか」、何を意味するのか謎だった。親に聞いても、子ども用の国語辞典で調べてもわからなかった。いまのようにすぐにネットで調べられる時代ではなかった。
それと、「べルサイユのばら」のオスカルさまが「庶民はこんなに始末しているのか」(←このままではない)というような台詞をいうのも、なんだかよくわからなかった。
20代のなかばごろ、本社が大阪にある会社の東京支社に転職したが、そこでも、わかったようなわからないような気分で関西から来た人たちの言葉を聞いていた。いま、中国でわかったようなわからないような気分で中国人が話しているのを聞いているみたいに。
食べるものがないのでイオンモールに行った。
映画館はいつになく人が多かった。
若手人気作家、韓寒の監督作品「四海」という映画を見た。この人の映画はつい最近「扬名立方」という映画も見た。何年か前に名前は忘れたがこの人のロードムービーみたいな映画もみたことがある。軽妙洒脱でユーモアがあって、話にも深みがあって確かにこの人に人気があるのもうなずける。「扬名立方」は台詞が難しくてついていくのがたいへんだったが、「四海」は「扬名立方」よりもわかりやすかった。
ストーリーは、島に住むバイクだけが友達だった青年が、暴走族のグループのようなものに入り、そのリーダー格の男性の妹とひかれあうようになる。リーダー格の男性が死んで彼が残した借金を妹が背負うことになり、主人公の青年は警察に負われるようになる。そこでふたりは島を離れて大都市広州に向かう。広州市内はバイクの乗り入れが禁止なので大事なバイクは取り上げられてしまい、青年は遊園地でバイクの芸をし、女性はウェイトレスとして働くようになる。青年は女性の借金を返すために命がけのスタントをして失敗して重傷を負う。女性は青年のバイクをとりもどしてそれを青年に届けに行く途中で、事故にあって死亡する。
とわたしがあらすじを書くと身もふたもない感じになるが、そういう映画だった。
その後、いつものようにサイゼリアで食事して、買い物して帰宅。
今日は遅く起きて食事をしようと思って昨日買ってきた蕎麦を煮て食べようと思ったら、酸っぱくて食べられなかったので、買ってきた蕎麦は全部すてた。
そのすきっぱらのまま、ネットで中国語会話(例のボランティアのボランティア)。
一応、最初のグループとの会話練習は終わったが、二度の会議で相手の二人についてレポートを出さなければならない。二度だけだし、何を書いたらいいのかよくわからない。
しかし、とにかく何か書こう。いまじゃなくて、少ししたら。何事も勉強よ。
〇顔の見分けがつかない理由について「チコちゃん」のHPに書かれていた。
そうかもしれないけど、毎日学校で学生の顔を見るのに見分けがつないのはどうしてだろう。
学校では、いわゆる「今時の男の子」の見分けがつかない。格好悪い子とか、太っている子とかは見分けがつくし、印象に残る。
女の子も、わたしの頭の中にいくつかの分類ファイルがあり、実際には全然似ていないのかもしれないが、何らかのわたし基準で同じ部類に分けられてしまうと、その同じ部類の中の子は見分けがつかなくなってしまう感じ。
昨日もでかけないで、YOUTUBEで映画。
「阿桃」は、70年代に農村に下放された知識人の母のもとに都会からやってきた少女が、隣に住む一家の娘「阿桃」との交流を通じて、貧しい農村の生活の中にある美しさや悲しさを経験するというストーリー。最後に、成長した主人公が都会の展覧会で阿桃の藍染の作品を見つける。
「送你一朵小红花」は2020年の新しい作品。いま中国の女の子の間で絶大な人気を誇る易烊千玺が主役。癌を患った少年と少女が主人公。少年が夢に見た青海省の湖に行く途中で少女が倒れる。少女がなくなった後、少年は一人で湖を訪れ、自分や周囲の人たちがパラレルワールドで幸せに生きるようすを夢想しておわる。わたしのようなおばさんからみると、ラブコメ風から悲劇への暗転とか、親子の愛とか、イケメンがなりふり構わず愛を告白とか、いろいろとあざとく泣かせようとする演出が臭く思われるのだが、こういうのが人気なのだろう。今日から上演が始まる正月映画の中にも易烊千玺が出演するものがふたつもあるようだ。
夜は少し「喜福会」を読む。あとは娘との長電話とネットサーフィン。
昨日は気晴らしに出かけようと思ったが、結局、盒马にしか行かなかった。
けっこう人がたくさんいたが、それは他のスーパーがみんな春節で休みになったからかもしれない。最近はイオンか盒马でしか食品を買っていない。しかし、いつも買いたいものがなくて、同じものばかりを買っている。他に安いところもあるのだろうが、盒马などで買物をすると、たぶん日本よりも高い。中国で生活していると、いまでも物価が安いと思われることが多いが、都市部では最近あまり日本と変わらないような気もする。
〇同僚の先生からの連絡によると、現在、市内で隔離されている人は三万人もいるらしい。そのため、不要不急の外出はしないほうがいいとのことだった。春節というとにぎやかなイメージだが、わたしが住んでいるところはふだんよりも静まりかえっている。
〇昨日見た映画は、「盲道」と「少年朱元璋」。
「盲道」は、街頭で物売りをしていたニセモノの盲人が、本当の盲目の少女を助ける話。少女は街頭で乞食をしているのだが、「スラムドッグミリオネア」のように子どもに乞食をさせて上前を撥ねる組織があるのだ。少女の母親と継父は金をもらって子どもを組織に引き渡している。「スラムドッグミリオネア」と同じように普通の子どもよりも障害児のほうが稼ぎを得やすいのだ。北京に住んでいたころは、地下鉄の車内でありとあらゆる物乞いを見たが、ここに引っ越してきてからはお寺の裏門のところでしか見たことがない。たぶん、電子マネーの時代になったことも関係しているのかもしれない。
「少年朱元璋」は、極貧の少年が紆余曲折をへて大人になるまでを描いている。元の時代のことなので、支配階級であるモンゴル族が空威張りしている社会で、漢族のまずしい少年はしいたげられている。貧しい少年はモンゴル族の地主のバカ息子のせいで学校を追われ、その後、飢饉の中で兄一人を残して家族が死に、食べていくために出家する。そのあとの話はナレーションであっさりと説明があって、映画が終わる。それほどおもしろくもない映画だったが、抗日映画の中の日本人のようにモンゴル族が扱われているのが興味深かった。