2026/04/15

なんだったんだろう

 数週間前、ある同僚の先生から、急に非難された。

最初は雑談のような形でわたしの成績の付け方などについて話していたのだが、途中から、あれも変だこれも変だと言い出した。

試験問題の配分がおかしいとか、平常点の付け方がおかしいとか、課題の受け取り方がおかしいだとか言い、後から授業をする先生の迷惑だとまで言うのだが、わたしのやり方は主任の先生や後続の授業をする先生と相談して決めたことで、わたしの独断で決めたことでもないし、特に何かの規定に反しているわけではない。


しかたがないので、「わたしだって自分の考えだけでやっているわけではないのだから、わたしに迷惑だと言われても困る」と相手の目をしっかりと見ながら言ってやった。

相手をするのが嫌なので、別の教室に逃げようとしたら、後ろから「うさぎ先生のやり方は変えたほうがいいと思います」とまだ言っているのだった。

この人は前にも、そういうことが何度もあった。


その人は普段は普通のいい人で、わたしよりもいろいろな面でしっかりしていて、これまでもいろいろ協力してもらったり、教えてもらったりすることも多かったので、その後もあまり近寄らずに、あたりさわりなく過ごしていた。

そして、今日、急にその人がわたしに「先日、うさぎ先生に言ったことで、機嫌を悪くされたのではないかと思って気になっていた」と言ってきた。

そう言われたら、「別に気にしていませんから」と言うしかないし、実際わたしもいちいち気にしてもいなかった。しかし、なぜ何週間もたった今? 何かわたしが誤解するようなことを言ってしまったかもしれないとのことだった。それから、しばらく歩きながら、普通に世間話をして別れた。

しかし、あれは何だったんだろう。何かストレスでも抱えている人なんだろうか。



気楽に生きているように見えるらしい

 毎日、読書とペン習字とストレッチを続けている。

『撒哈拉的故事』は半分くらい読んだ。

学校でわたしが辞める話を他の日本人の先生にするとみんな少し考え込んだような顔をする。

誰もがいつかは中国での仕事を辞めて、帰国しなければならない。

しかもこの仕事は先細りである。

しかし、中国で働いている日本人教師をみると、日本での職歴があまりない人が多い。帰国してから日本語教師を続けるにしても、まともにやるなら、新しい資格をとらなければならない。わたしは日本に帰ったら日本語教師をやるつもりがないので、それについてはあまり調べていないが、かなり難しくなるようだ。

ある意味、生活を夫に頼って日本に帰国するわたしは、ともするとお気楽に思われそうなので、ついペラペラと自分のことを話してしまいそうになるが、余計なことは話さないことにした。

かつて翻訳の仕事を辞めて中国に行くときも、ブログにそう書いたら、同業者がたぶんわたしのことを「やめたいからって、サッと辞めてしまうなんて、それでもプロか」とブログに書いていた。その人はわたしのブログを読んでいたはずであり、書かれたタイミングからわたしのことを言っているのに違いなかった。

中国に来て大学院に通い始めたときにも、かつての同級生たちに話したら、「いい年をして大学院に通うなんて、お気楽でいいですね」と会うたびにしつこく言われた。

その後の中国での生活もそう思われただろう。

今回も「お気楽に」帰国する。

わたしなりにいつだって気持ちが晴れないことがあるし、お気楽に生きるには、それまでの積み重ねがあるわけで、何もずるいことをしていないのだが。


『撒哈拉的故事』はかつて日本語訳が出版されていて、Amazonを見ると「砂漠の暮らしは愉快! 痛快!」などと紹介されているのだが、最初のほうのエピソードはいかにも軽妙洒脱だが、後のほうのエピソードを読むと、自分の意志で砂漠に行ったのだとは言え、かなりギリギリにまで追い詰められたような生活を経験しているわけである。それでも「愉快!痛快!」と紹介されてしまうわけだから、

自分ではそれなりに苦労したつもりのわたしの生活も「お気楽!きまぐれ!」に見えてしまうのだろうか。 



2026/04/13

会議で

 昨夜は『撒哈拉的故事』を三分の一くらい読んだ。

あまり好きではないと言いながら、やはり三毛はおもしろい。

スペイン人の夫ホセとのサハラ砂漠での新婚時代を描いたエッセイだが、この作品が出た後にホセが事故で死に、わずか6年の結婚生活が終わってしまうことを思うと、幸せな日々の描写が何とも切ない。夫亡きあと、彼女自身は台湾に帰るが、やがて自殺する。

『撒哈拉的故事』は実際のサハラ砂漠での経験を題材にしているとはいえ、読んでいるとどこまで本当でどこからがフィクションなのかわからないような気がする。もちろん、すべてノンフィクションである必要もないのだが。なぜこの人があまり好きではないかというと、やはりサハラの人たちを未開人を見るように上からの視線で見ているような感じがそこはかとなくするからだろうか。それになんとなくわざとらしい描写が多い。

でもやはりおもしろい。これを読んだら、また『梦里花落知多少』も買って読もうかな。

〇今日の会議で、主任に来年度の契約の更新はしないと言った。

「市内の他の大学の日本語学科がなくなるので、日本人の教師を受け入れてもらえないかと打診があったのだが、大学が定員を増やせないというので断るつもりだった。けれど、うさぎ先生が辞めるならその人に来てもらうことにする」と主任は言っていた。

わたしが辞めることで、誰かのチャンスが生まれたわけである。

わたしがもういやだいやだと言いながら仕事をするよりも、そうした人に仕事をしてもらったほうがいいだろう。

その会議で、主任が他の教師たちに「基本的に今いる人は契約を更新できるが、こちらの指示を断ったりする場合は更新を許可するかどうか考える」と厳しいことを言っていた。

いままでこんなことを言わなかったのにそんなことを言うのは、この仕事がますます椅子取りゲーム化してきて、買い手市場になったからかもしれない。…と思った。


2026/04/12

三毛『撒哈拉的故事』と映画『我、許可』と中沢啓治『はだしのゲン わたしの遺書』

 風邪が治らない。

しなければならない仕事もあるのに、先延ばししている。

このブログを書いているのも、仕事をしたくないから。

金曜日の午前中は寺に行った。

以前は400字くらいの作文を宿題として出していたが、そういう宿題だと

みんなAIを使って書いてくるので、授業中に口頭でやった練習問題の答えをノートに書いてきてもらうという宿題に変えた。

しかし、そうしてみたら、授業中にわたしが問題を出し、学生に口頭で答えたり、復唱したりしてもらおうとしても、みんな下を向いて答えをノートに書いていて、誰も復唱しないのである。つまり、宿題として後でノートに書くのはいやだから、授業中に答えを聞いた時に書いてしまおうというわけ。わたしは授業がおわった後で思い出してノートに書くことに意味があると思っているので、そう説明しても、みんないう通りにしない。

前学期の学生はそんなことなかったのに。どうしてこうなったのだろう?

その日はそのままショッピングセンターに行って食事と買い物をして帰ってきた。

どっと疲れた。

〇『实用主义者的爱情』はなかなか話が進展しないので、疲れてきた。

途中で休んで三毛を少し読んだ。三毛ってこんなに読みやすかったっけ?

わたしはそんなに三毛が好きではない。ずいぶん前に何かの動画で三毛が話しているところを見て、さらに苦手になった。何だか気持ち悪い話し方。

昨日はまた買い物に行って映画も見た。『我、許可』。

許可というのは主人公の名前であり、この映画のタイトルは「わたしは許可」という意味と「わたしが許可する」という二つの意味を持っている。

「女性が自分の身体や人生の問題を自分で決める」ということがテーマになっていて、

それにまつわる葛藤を経て、わだかまりがあった母と娘の間に共感の絆が生まれるという物語。少し途中で飽きたが、長い間家族に尽くしてきた母が自分の人生を取り戻し、「娘にはもっとすばらしい人生を生きてほしい」というのがよかった。わたしもいつもそう思っているし、わたしも自分の人生をこれからも生きていこうと思っているから。

『出走的決心』もそうだが、最近、こういうテーマが多いような気がする。

〇今日は明日までにする仕事をしたくないので、朝、kindleアンリミテッドで見つけた中沢啓治の本を読んだ。二時間であっという間。

さあ、仕事をしよう。やりたくないけど。

2026/04/09

一回休み

 昨日、学生に送信するために録音をしていたら妙に声がかすれてくると思っていたら、

夜になって咳が出るようになった。

戸棚の中を見てみたら、一年前に期限が切れた風邪薬しかないので、それを飲んで寝た。

朝になったら、咳はあまりでなくなったが、頭が痛い。

それで、今日は授業もないし、読書・ペン習字・ストレッチも一日お休み。

もう少ししたら、宅急便を取りに行くけど、それ以外は何もしない。

2026/04/08

難しい

 https://komachi.yomiuri.co.jp/topics/id/1237913/


これ。

さすがにわたしでもそういう場所にこういう服装はしていかないと思う。

でも、本人たちが大丈夫と思い、周囲も何も言わないならOKでしょう。

「平服でお越しください」というよく見る言葉は、普段着で行くという意味ではないということくらいわたしだって若い頃から知っている。

昨年の夏、都内の寺で伯母の法事があった。その伯母の息子である従兄から、わざわざ「喪服を着てこなくていいです。寺の建物は重要文化財でエアコンがとりつけられないそうですから、過ごしやすい服装でいらっしゃってください」と連絡があった。

わたしは夏用の薄い喪服ももっていたが、わざわざそう言ってくるのだから、一人で喪服をきていくのも都合が悪いかもしれないと思い、喪服でない黒いワンピースを着て行った。

駅から出ると寺へ向かう大勢の人がみな喪服をきちんと来ているのにきづいた。

寺は大寺院なので、その日もたくさんの家の法要があるのだろう。

そして、寺についてみると、他の家の法事に出席する人たちはもちろん、伯母の法事に出席する人もみな喪服を着ているのである。兄も同じ連絡を受けたと思うのだが、なぜか喪服。わたしに連絡をしてきた従兄自身やその娘家族・息子家族も含めて喪服。わたしは地味な黒いワンピースを着ていたが、それが喪服でないことは一目瞭然であるし、いい年をして間に合わせの服を着てきた人のようにしかみえない。そのとき、喪服を着てこなかったのはわたしと妹だけだった。

あとで会食のときに従兄に「お宅の家族でさえ、みんな喪服じゃないですか」と一応言ってみたが、「ああ、そうですねえ」とのんきそうな口ぶりで普通に流されてしまった。

なんだか忠臣蔵のエピソードのようだと思ったが、そんなことを軽々に言うと法事のような場で嫌みを言っているように見えるので言わなかった。

ああいう時にはどうすればよかったのだろう。伯母の法事はこれからも夏に行われると思う。次の時には喪服を着て行こう。

2026/04/07

コートがいらなくなった

 昨日は清明節の連休の最終日。

夫が杭州に来ているので、一緒に食事に行った。

特にこれといったことも話さなかった。本来なら話すべきことがいろいろあるのに。

話したことといえば、わたしの引越しの話と引越しが終わったらもしかしたら行くかもしれない旅行の話。

今日は午前中は大学の授業。昼はコンテストの指導。午後は3時まで学生のノートの添削。

合間に30分くらい隣の席の先生と趣味の読書の話などをした。この時間が今日、いちばん楽しかった。

家に帰って夕方まで学生にわたす日本語の朗読の録音をした。一日中、調子がよかったのに、なぜか録音をしようとしたら声がかすれてしまって時間がかかった。

もうすぐ午後10時になるが、今日はまだ読書もペン習字もストレッチもしていない。

ペン習字は『蘭亭序』はとりあえず後回しにして、楷書の字帖を買った。

楷書なら少しは楽ではないかと思ったのだが、これも硬筆書法等級考試7~9級と書いてある。大丈夫かな。


☆ネットで調べたら、九成宮醴泉銘は難しいとあちこちに書いてあった。でも、やるだけやってみよう。どうせ6.5元だし。

2026/04/06

映画『陽光女子合唱団』

 家にいてもしかたがないので、映画を見に行った。

台湾映画『陽光女子合唱団』。とにかく台湾でものすごいヒットとなった映画だそうだ。

証券会社に勤める李恵貞とその夫は株取引で経済的な窮地に陥る。その時、妊娠していた恵貞に夫は中絶を迫るが恵貞は拒否。怒った夫は恵貞に暴力をふるって流産させようとする。

恵貞は鋏で夫を殺してしまう。

刑務所の中で出産した恵貞は刑務所の大部屋で娘を育てる。同じ部屋の仲間は娘を優しく見守ってくれる。

しかし、娘は生まれた時に保育器に入ったため目に障害があり、その手術は刑務所の中ではできないため、恵貞はまだ幼い娘を手放すことを決意。せめて娘にいい思い出を残すために、刑務所の中で合唱団を作り、娘に母が歌う姿を見せたいと思う。

合唱団の指導者になってほしいと、夫を殺して服役中だったかつての大スターだった女性玉英に依頼する。彼女は障害児であった自分の息子を夫が虐待したために夫を殺したのだった。娘もいるが、娘は父を殺した母を恨んで没交渉となっている。

娘は外部の施設に送られ、その後、新しい母となる女性も見つかる。恵貞はその女性に「実の母が殺人犯だったことを娘に伝えないでほしい」と伝える。

ある日、合唱団は刑務所外のステージで歌うことになる。癌が発覚して余命が短いことを知った玉英はこれが生きて外を見る最後の機会だと思う。陽光合唱団が歌っている時に子どもたちの合唱団が現れ、それぞれ囚人たちの隣にたって手をつないで歌うことになる。恵貞と手をつないだ少女は彼女が手放した子どもだった。涙を浮かべて歌う恵貞。しかし、子どもは彼女が実の母であることを知らない。会場の外では、玉英の娘がひっそりと涙をぬぐっている。

成長した娘はある日、引き出しの中から出てきた写真や新聞の切り抜きから、自分が恵貞の娘であり、恵貞が刑務所の中のもめごとで刺殺されたことを知る。

野外のステージで恵貞が残した飾り(?)を胸につけて涙を流して歌う娘。それを出所したかつての友人たちが観客として見守る。

…だいたいこういうストーリー。前日に見た『我的妈耶』のように変にチャラチャラした安っぽさがないのがよかった。元大スターだった女囚玉英が囚人服を着ていても気品があり、きちんとした服装でステージに立った時のオーラが強烈で印象深かったが、あとからネットで見てみたらなんとジュディオングだった。47年ぶりの映画出演だそう。

2026/04/05

映画『我的妈耶』

 昨日は買い物と映画。

ちょっと気分が悪いことがあったので、映画は最初のほうは集中して見られなかったが、

単純なストーリーだったので、理解しやすかった。

十一という名の少年は、十八歳の誕生日に、死んだ母の日記を見つけて読み始める。

しかし、その日記は母が十一を妊娠するところで終わっていた。父からもらった「特別な誕生プレゼント」を開けてみると、それは父の日記だった。それにはその続きが書かれていた。

母は妊娠中に癌が発覚。妊娠中に癌の治療はできないので、「自分の命を取るか、子どもの命を取るか」の二者択一を迫られる。当然、夫は「妻の命のほうが大切だ」という。しかし、妻は堕胎手術を前にして病院から逃げ出す。妻は出産してすぐに死亡。母と子どもが一緒にいられた時間は十一分だった。だから、子どもの名前は「十一」。

それを知った十一は父と抱き合って号泣。

わざわざ映画館でお金を払ってみなくてもいいようなありがちなストーリーだからか、休日なのにあまり人が入っていなかった。

少し風邪気味なので、家に帰ってから、読書は少ししかしないで寝てしまった。

2026/04/04

硬筆『蘭亭序』臨書と孟中得意『实用主义者的爱情』

 硬筆練習帳「名人名言」をやり終えたので、やっと鋼筆字帖「蘭亭序」にとりかかった。

いままでなぞり書きばかりだったのだが、今度はなぞり書きと臨書。「适用于硬笔书法等级考试7-9级」と表紙に書いてある。7-9級ってどれくらいのレベルなんだろう。

日本では、二級より一級のように数字が小さくなるほどレベルがあがるが、中国では反対で普通は一級よりも二級が上だ。硬筆書法等級試験って何級から何級まであるのだろう。

とにかくまずやってみたが、臨書は難しい。よく見て書いているつもりだが、書き終えて見てみると、似ても似つかない字になっている。

なぞり書きよりも集中力がいるし、時間もかかる。

等級試験を受けるわけでもないし、少しずつやっていけば、いつかは少しは上達するのだろうか。

読書のほうは、孟中得意『实用主义者的爱情』という小説を読み始めた。

なんだかライトノベルのような感じ。張愛玲などと比べたら格段に読みやすい。

1970年代の中国。実利主義者のヒロインが、愛情よりも大学入学資格や住居の割り当てなどのために結婚を考えるというような話らしい。この本もかなり長いがぼちぼち読んでいくつもり。

2026/04/03

反応ないのに疲れた

 朝、雨の中を寺へ。

授業の時はテンション上げるけれど、みんなシラッとしていて反応が薄く、

途中でむなしくなる。復唱も小さい声で文の途中まででやめてしまう。

大学も寺もそんな感じ。語学学習なんてやってもしかたないという流れになってきたのだろうか。

前はこんなじゃなかったのに。

宿題もやってこないで、「他の先生は宿題なんか出さないんだから、宿題を出さないでください」という。本当かな。

授業中に口頭で練習するだけではわかったかどうかわからない。

書いてもらうと、実際はわかっていない点がどこかがわかるし、知識が定着もする。

宿題も一問一答式の問題を出すことにした。前のように作文を書かせると、みんなAIで作成したような長文を出してくる。そんなの学生が書く意味も、わたしが添削する意味もない。

きっと所要時間一分以下だろう。

前学期までの学生は授業が終わると入口のところまで送ってくれたのに、

今学期の学生は、私が「また来週」というと、「はい」というだけ。

まあ、いいけどね。

授業が終わったあと、大雨の中をバスに乗って帰る。

家に帰ったら、どっと疲れた。


2026/03/31

王安憶『長恨歌』

 この本は先日読み終わった。

王绮瑶という女性の青春期から死去までの物語。

少女王绮瑶は友人のコネで映画の撮影所に出入りしたり、日用品の宣伝ポスターに写真が使われたりするようになる。

そして、お金持ちの家庭出身の文学少女やカメラマン程先生の後押しで、ミス上海コンテストに出場して、三位の「三小姐」となる。

王绮瑶は美人だが、トップスターになるような際立った存在ではなく、日用品のポスターにちょうどよいくらいの美しさで、コンテストに三位になる程度の上海の典型的な女性なのである。

ミス上海三位となったことから、彼女は国民党の大物の李主任に見初められ、三番目の妾として囲われる。

その後、李主任は飛行機の墜落事故で死ぬ。

王绮瑶は内戦から逃れ、母方の祖母の家に疎開する。そこで、都会的な彼女にあこがれる阿二という少年に出会う。阿二は王绮瑶につりあう男性になるために上海へ向かう。

その後、王绮瑶は上海に戻り、注射をすることができる資格をとってアパートの一室で開業する(こんな仕事があったんですね)。こうして細々と生活をしていたが、裕福な厳夫人と付き合うようになる。

王绮瑶はこの厳夫人を通じてその甥の康明遜と密かに交際するようになるが、過去の素性を明かせない王绮瑶は良家の息子である康明遜と結婚することはできない。身ごもった子どもも康明遜の子どもであることを周囲に隠さなければいけないので、ハーフの青年を騙して関係を持ち、彼の子どもであることにする。

王绮瑶は出産し、一人で子どもを育てる生活をするが、若い頃に知り合ったカメラマン程先生が蔭に日向に彼女を助ける。しかし、この程先生は文革中に自殺に追い込まれる。

いつのまにか、娘は成長したが、この娘は王绮瑶のようにお洒落で美しい娘ではなかった。しかし、結婚が決まって夫とともに渡米する。

王绮瑶の家は若い友人たちが出入りするサロンのようになり、そのうちの若い青年老克拉と王绮瑶は恋をする。老克拉はオールド上海の雰囲気のある王绮瑶に魅力を感じたのである。

王绮瑶の家に出入りする若者の中に、大金持ちの御曹司だという触れ込みの青年がいたが、彼は実はあやしい為替取引などをしている貧乏人だった。彼は王绮瑶がかつてのミス上海であり、国民党の大物が残した財産を持っていることをかぎつける。彼によって王绮瑶は殺される。

簡単にいうとそういう話だ。

この小説を作者王安憶は「『長恨歌』は、とてもとても写実的な作品です。」と言っているとAmazonには書いてある。作品の中に、博物館のジオラマを詳細に説明していくように上海の街や人々の暮らしなどを描いていく表現が多いので、そういうことを言っているのかもしれない。しかし、なんとも現実味のない物語である。李主任や程先生のような身近な大切な男性がなくなっても、王绮瑶がそれをどのように受け止めたのかなどは描かれない。

母一人子一人の家庭で育てた娘も、その成長の過程にはあまり触れられず、いつのまにか思春期の頃になってしまう。

王绮瑶の生活も疎開先から上海に戻ったころは、患者に注射をする仕事をして質素に生活していたようだが、そのうち、あまり仕事のことは書かれなくなり、娘の友人とファッションに夢中になったり、サロンのように若い人を家に呼んだりしてすごすようになる。いったい何をして生活をたてているのだろうか。李主任が残してくれた金の延べ棒に頼って生活をしていたのだろうか。最後に彼女を殺した青年長脚が奪い取った箱を開けた時に失望したところから、そんなに李主任が残した金はなかったようにも思える。そういうところもよくわからない。それにいくら美貌で雰囲気があるからといって、最先端の娯楽がある上海で、そうしたところで遊ぶ若い子たちが母のような年齢の彼女のアパートの部屋に集まって過ごすようになるというのも、何だかありえないような気がした。

なんとなく王绮瑶という存在を通して、上海の街の時の流れを遠くから見下ろしているような感じの物語だった。

たしかに上海の街や人間模様の描写は、ある時は鋭く、ある時は繊細で、今私が住んでいる路地のような中国江南の都会のゴミゴミして湿度が高く人間臭くかび臭い場所がポエムのように描かれていて、そこに読書の楽しみはあったが、物語は現実離れしてつかみどころがないように思え、あまり私の好みではなかった。

〇しかし、第三部はよかった。ラストで王绮瑶の命を奪う長脚という青年の存在が、鮮やかに大都会の闇というものを表している。根っからの悪人ではないのに、都会の虚飾の中で出自をいつわり、インチキを行うようになる。こういう悲しい魑魅魍魎が生まれたり、潜んでいたりするところがいかにも都会の怖さだという気がした。そして、互いに後ろ暗い背景を持つ者同士が争い、長脚は王绮瑶に本当の姿を見破られ、王绮瑶も滑稽な本当の老いた姿を晒して死ぬ。オールド上海の匂いたつような雰囲気に酔わせておいて、こういうエッジが効いた残酷さで締めくくるところが怖い。長脚に「おばさん」と呼ばれて、王绮瑶が怒るところも、テネシーウィリアムズの『欲望という名の電車』のブランチみたいな気味悪さを彷彿とさせるものがあってよかった。

2026/03/30

『家族ゲーム』

 昼すぎに帰宅して、やることもあるのにそっちのけで40年以上も前の映画『家族ゲーム』を見た。

松田優作主演。

隣の席の先生が『家族ゲーム』がこれまで見た中でいちばんショックを受けた映画だったというのだが、わたしもそれを見たはずなのに松田優作が図鑑をもって船に乗っている姿しか思い出せなかった。どんな話だったっけ?

それで家に帰ってからアマプラで見たのだが、ストーリーは家庭教師が中学生を指導して高校に合格させるというそれだけの話だった。あまりにも単純なので、思い出せなかったのだろう。でも、それなりに面白い。家庭教師も学校の先生も。

あんなふうに成績の悪い生徒の答案用紙を窓からポンポン捨てられたらいいのに。そういう時の教師の顔つきだとかがおもしろかった。

しかし、なんとなく眼をそむけたくなるような家庭の様子なども、妙に淡々とそれでもこれでもかこれでもかと描かれていて、途中で見るのをやめたくなったが、最後まで見た。

なんだか切ないような、すっきりしたような結末だった。

でも、わたしはああいう家庭教師みたいな人はきらいだな。

〇昨日、『長恨歌』も読み終わった。それについては、そのうちここに書くかもしれない。

中国語で「一步错,步步错」という言葉がある。たしか曹禺の『雷雨』の中で侍萍も自分の人生をこの言葉で表していたような気がする。「最初の一歩を間違ったら、その後どんどん間違ってしまう」というような意味だが、『長恨歌』の主人公の人生もそういう人生。張愛玲の『第一炉香』の主人公もそう。侍萍の場合は少し違うのかもしれないが、若い女が人生の初期段階で安易に女を売り物にしてチャラチャラ生きようとすると、将来ろくなことにならないという、まあそういう話ともいえる。