コパさんのブログを読んだ。
たしかにあっという間の一か月だったのような気がする。
あわただしく休講の相談をして飛行機に乗った四月の初めのことは昨日のことのように思える。
しかし、その後に思いがけないほど早く母の容態が変わってしまった。私が最初に病院に行った日とその次の日には意思疎通ができ、「五月にまた来るね」と言ったらうなづいていた。二日目の晩に病院から電車で家に帰ろうとしたときに、兄から「医者が今日明日までということもありうると言っている」との連絡がきた。次の日に行った時にはもう意識がなく、翌日の早朝には血圧が下がってきたという連絡があってみなが駆け付け、その日の昼になくなってしまった。
それから通夜・葬式。学校に戻ってから、あわただしく休んだ分の仕事を片付け、瞬く間に一か月。
しかし、一か月前と今とでは、母がいなくなるというわたしにとっての大事件が起こったわけであり、日常は何も変わらないが、心の中の風景はまったく変わってしまった気がする。
それを思うと、一か月前のことはとても遠いことのように思える。
いまでも、悲しいのか、驚いているのか、それとも何も感じていないのか、何なのか、自分の気持ちがわからない。
母の臨終の瞬間にうちの子どもたちが泣くさまや、母の葬儀の時に母の友人たちが泣き崩れるさまをドラマを見るようなぽかんとした気持ちで見ていた。
その人たちのような突き刺すような悲しみはわいてこなかったし、どんなかかわりがあればそんな悲しみを感じるのだろうと思った。
母が死んだのだから何か大きな感情の動きを感じなければならないような気がするが、いまでもぽかんとした気分でいるのである。なぜなんだろう。本当はどういう悲しみを感じなければならないのだろうか。
何かの拍子にしみじみと感じるのかも知れないです。今はぽかんとしていればいいと思います。
返信削除そうですね。あるがままがいいと私も思います。
返信削除おはよううささん♪
返信削除私の母はコロナだったので私はコロナ病棟に入れず、病院の駐車場で待っていて、くまちゃんが看取ってくれました。
その後、火葬場でも密封された袋は開けてもらえず、顔を見ずにお別れでした。
思い出すなあ、ひぐらしの声。
今年の桜の時期は長くて、私が日本にいる間、ずっと咲いていました。母の病室から外をみると、大きな桜の木が二本。娘と首を延ばしてそれを見ていました。ベッドに寝たきりの母からは見えなかったでしょう。あの桜をこれから春が来るたびに思い出すのかな。
返信削除人それぞれかな、、
返信削除私も、母が亡くなって四十九日くらいまで、ぽかんとしたままでした。家の中で物音がしないのが、だんだん寂しさに変わっていって、二年くらいは涙が溢れました。周りに思い出す物がないのは楽かもしれません。