今日も無駄な仕事のために灼熱の中を学校へ。
ほんの短い小説だが、路遥の「一生中最高兴的一天」を読んだ。
あらすじはこういうものだ。
村の学校の教師をしている「私」は春節の休みに学校のラジカセを家に持ち帰って保管することになる。当時、農村ではラジカセは貴重品であり、誰もない休暇中の学校にはおいておけないからだ。
「私」は家に持ち帰ったラジカセで老いた父の声を父亡き後まで残したいと思う。
そこで父に「一生のうちでいちばん嬉しかった日」のことを語ってもらう。
父が語った「一生のうちでいちばん嬉しかった日」の話はこういうものだ。
ある年の春節に父は家族のために豚肉を買って帰ろうと思ったが、もう店は閉まっている。
そこで有力者の親戚だと嘘をついて店を開けてもらって肉を買う。父は四元持っていて、そのうちの半分で肉を買い、あとの半分で家族への土産を買うつもりだったが、有力者の名を騙ってしまった以上、ケチケチした態度を見せるわけにもいかず、四元すべて出して肉を買う。
肉をもって帰途を急いでいると、知り合いの高に会う。高は病気の妻と多数の子どもを抱えて身なりは乞食のようである。高は、「年を越すためにやっと金を借りたのだが、肉が買えなかったので、その肉を半分売ってくれないか」という。
父が四元で半分売るというと、高はその言い値で肉を買っていった。
父の手元には肉を買ったのに、もとからもっていた四元がそのまま残った。
その金で家族への土産も買えた。これが父の一生のうちでいちばん嬉しかった日である。
…という話。
生活に窮している知り合いに自分が買った価格の二倍で肉を売るのはあまりにもあこぎではないか。
この後、物語は村の春節のにぎやかな風景をふんわりと描いて終わってしまう。
どのようにこの物語を解釈すべきなのかと思って、ネットにある「解读」を聞いてみたが、「父が愛する家族への贈り物を十分に買えた喜びを描いた物語」と解釈しているのである。
なんだか納得できない。そういう物語なのだろうか。
私も納得できない。私なら半分を2元で売って、見栄張ってバカだったと反省し、戻って来た2元で土産を買う。そうするつもりだったのだから。でも店が閉まっていた時点で、もっと早く準備するべきだったと反省し、有力者の親戚なんて嘘つかないで、肉なしで正月にする。
返信削除金を借りてまで(返すアテないだろうに)肉買って年を越したい、というのも、どうかと思う。こんな相手だから、買った時の倍の値段で売ってやっても、いいんだよ、相手も喜んでその値段で肉を買えたわけだし、になるのかな? 商売の本質が描かれている物語?
村の教師をしている「私」は、あの時の肉や土産にこんな物語があったと知って、どう思ったのかな?