ねこねいさん、それは?
この今自分がいる場所でのことだと思えば、荒唐無稽なことに思えるけど、この現実(=夢)が覚めて次の現実(=夢)に移れば、それはあり得る
…と認識されていたということ?
「100分DE名著」と「荘子ー古代中国の実存主義(福永光司)」を購入して読んでいる。
一昨年、仏教についての本をいろいろ買って読んだが、その時と同じように、読んでいる時には、様々なことを考えたり、思い出したりするが、一旦、本を置くとわかったようなわからなかったような気がする。「般若心経」も、「荘子」も、鳥が高い空から地上を眺めるように、つまらない人為を捨象して、抽象度の高い真理を見るという点でよく似ている感じがした。どちらも真に感得できれば死ぬことさえ怖くなくなるような。そうは言っても、その境地に至るのは、日々、つまらない人為のためにあくせく悩むわたしのような凡人には、どれだけ難しいことだろうか。
そう思ったら、楠山先生の言葉が違う意味に思えてきた。
わたしは、あの当時、「そんな古臭いもの、若い子にはわからないだろう」というような意味だと思っていたのだが、「字面の意味を理解するのは簡単だが、真にそれを自分のものにすることは難しい。それだけ遠い道のりなのだ。」…という意味だったのかな。そう思うと深い言葉だったのかもしれない。
仏教が入ってきて世界は自分の認識する姿が見えているだけなんだなと思ったら、夢とうつつの行き来もまた精神世界の真実だと発見したのが荘子さん。
返信削除かもしれない。
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返信削除そうね。一昨年、仏学院の授業に参加させてもらってアビダルマ勉強しまちた。
返信削除むずかしくてちんぷんかんぷん。それで全部忘れたと思ってたけど、たしかにそういうことを学びまちた…。