2021/02/02

金陵十三釵(映画)

 昨日、「金陵十三釵」を見た。夜、息子からウェイシンで電話がかかってきたので、

見るように言ったが、そんな重そうな映画は見たくないと言われた。
それもそうだ。「シンドラーのリスト」や「火垂るの墓」と同じくらい重い。

南京事件のときに、女子学生十四名が教会に逃げ込んでくる。その後、娼館の娼婦もむりやりに教会に逃げ込んでくる。
その後、教会に飛び込んできた流れ弾で女学生一名が死亡。

その後、日本軍の兵士たちが乗り込んできて狼藉を働く。そのどさくさで女学生一名が死亡する。
数日後、日本軍の将校がやってきて、女子学生十三名を日本軍のパーティに招待する。もちろん、いかないという選択肢はない。そこで余興に歌を歌ってほしいというのがその理由だが、もちろん誰も歌を歌うだけで済むとは思っていない。
そこで女性学生に変わって、娼婦たちがみずから身代わりになって日本軍の下に赴いて、そのすきに女子学生たちはトラックの荷物の下にかくれて南京を脱出する。

〇ストーリーは以上のようなものだ。
わたしは日本人として、南京事件についてまったく日本の罪行を否定するつもりはまったくない。しかし、それ以外の部分で、これを見て納得がいかなくて、胸が苦しくなった。

物語の中で娼婦たちの何人かについて、自らが娼婦になった経緯が語られる。もちろん、なりたくてなったはずがなく、その当時の中国社会の悲惨な境遇の中でそうならざるをえなかったのだ。彼女たちは自分たちの社会における位置づけを知っている。そういう自分たちだからこそ、少女たちの純潔を守るために犠牲になりましょうと自ら言うのだが、そこがなんだかな。

この映画はどこが「感動的」だというのだろうか。
中国の社会で性的虐待を受けてきた女性なら、日本人の下でまた性的な虐待を受けてもいいということなのだろうか。いったん踏みつけられて汚れてしまった女性は、また他人に踏みつけられていいということなのだろうか。

中国の社会は、女性の「純潔」について今でも日本よりも重視する社会である。
日本からのAVの流入もあるが、そういう面でのこともあって、日本人女性は「開放的だ(つまり性的に)という偏見も根強い。
女性の価値をそこに置く中国の観念がこういう物語を感動物語として生み出したのではないかと思えてならない。

こういうことは多かれ少なかれ日本にもある。

たとえば、沖縄などで一般女性を守るために売春施設は必要悪なのではないかというような議論があると聞いたことがあるが、女性は女性なのであって守られるべき女性と守らなくていい女性があるわけではない。いったん何かの理由で「守られなくてもいい女性」の範疇に入れられてしまったら、もうその内面の葛藤は無視していいものなのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿