2024/12/22

原書を楽しむ

 「中国語の表現から離れてストーリーやキャラクターだけで楽しむ、ってのがなかなか。」

ええ、そうなんです。

英語やドイツ語なら、それしかできないから、疑問も持たずに翻訳で楽しめる。

原書で楽しめる語学力がないから。

だけど、中国語の小説はいったん中国語で読みはじめると、もはや翻訳で読む気がしなくなる。

技術文書や契約書なら、日本語で置き換えが可能だが、文学作品の中国語の表現は日本語に置き換え不能とさえ思える。

それは当然、英語やドイツ語の翻訳だって、そうなのだけど、それは翻訳で読むしかないから、そういう次元での読書だと最初から割り切っている。

もちろん、わたしだって、日本語で読むようにすべてがよくわかるわけではない、部分的には霧がかかったようにしか理解できない箇所もある。それでも、中国語の表現は中国語の表現としてそこにあってそのものの味わいがあり、日本語に置き換えたら、ニュアンスや意味合いを過不足なく残すことはできない。

いまは翻訳の仕事をしていないが、それが幸いだと思うのは、いちいち日本語でどう表現したらいいかを考えなくてもいいこと。その差を埋めるのが楽しい人もいるかもしれないが、わたしはその埋められない伝えきれない差が心の重荷にさえなってしまいそうな気がする。

5 件のコメント:

  1. うささんの仕事の流儀、ですね。
    原語で分かるものは言語で味わいたいです。
    技術的に無理ではございますが……。

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  2. ですよね~。なので翻訳される中国文学作品、逆に翻訳でも楽しめる、ストーリーやキャラクターの立ったものが、多くないですか? 

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  3. ほとんど中国作品の翻訳は読んでいないのですが、余華の『兄弟」とかはそうかもしれません。

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  4. 翻訳ものは翻訳家の個性が出ますね。
    原文に忠実かどうかは、、?

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  5. 原書、憧れますね。積読が……

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