昨日は学校の会食に行った。
コロナが終わってから初めてで、久しぶり。
〇この数日で「城南旧事」(北京の想い出)の原作を読んだ。映画のほうは、以前は中国語学習者の間で人気の作品だったと思う。
でも、この作品も映画と原作ではかなり印象が違った。映画は、「古きよき北京で過ごした幼い日の懐かしくちょっと切ない想い出」のような内容だが、原作はもっと苦みのある内容だった。
原作には「蘭姨娘」と題する章があって、この部分が映画化される時に省かれたことで、映画の印象も、英子の父母の印象も大きく変わったと思う。
たとえば、映画では、英子の父は知的で清廉な人物として描かれているが、原作では、蘭姨娘という女性が登場することによって、かなりクズな人物としての一面が描かれる。蘭姨娘は幼いころに親に売られて、年の離れた男性の妾をしていた女性である。そして、その家から逃げ出してきたのを、英子の父が家に置いてやるのである。もちろん、そこには男性としての下心があり、母もそれを感じとっている。ある日、母が妊娠して大きなお腹で汗をかいて料理をしているとき、父と蘭姨娘は一緒にベッドに寝転がってアヘンを吸っていた。そのとき、たまたま部屋に入っていた英子は父が姨娘の手を握ろうとしたのを目にしてショックを受けるのである。
英子の母は、映画とは違って、次々に子どもを生み、家に使用人を置いているとはいえ、負担の多い生活をしている。父は女性とはそういうものと考えて、妻を人間としていたわる気持ちがない当時の男性の一人として描かれているのである。
この小説に出てくる男性は、弟のために盗みをしている泥棒を除いて、たいていろくでなしである。最初のエピソードにでてくる妊娠した秀貞の元にもどってこなかった学生も、映画では思想犯として捉えられたことになっているが、原作ではどうも故郷の母に反対されて秀貞を捨てたようであるし、英子の弟の乳母の夫も、乳母として働く妻に子どもの養育費をせびりにくるが、実はすでに二人の子どものうち一人は売り払い、一人は死なせてしまっているのを隠しているのである。原作では、乳母は英子の母の勧めに従って、またそのひどい夫の元に戻っていくのである。(←この経緯も映画とは違う)
映画とは違い、原作のほうは、そのように「女性の哀しさ」を鮮明に描いた作品だった。中国語のサイトに「映画のストーリーは原作をほぼなぞっている」と書かれていたが、わたしの読後感は決して映画のようにほのぼのとしたものではなかった。
〇とはいえ、映画を見た時にはわからなかったが原作を読むことで理解できた点がいくつかあって、原作は原作なりに興味ぶかかった。
たとえば、英子が学校の卒業式で「すずめ」の扮装をしている理由や、学校で英子が朗読する「一緒に海を見に行こう(我们看海去)」という詩がどのようにストーリーと絡んでくるのかなど。また、映画の挿入歌「送別」の意味など。
貧しい泥棒の青年は優秀な弟の学費のために盗みをしている。いつかは弟を海外に留学をさせたいのだ。「いつか弟を見送りに行く日が来たら、一緒に海を見に行こう。そうしたら、英子は海と空が見分けられるようになるだろう」という会話とこの詩はつながっているのである。
また、この小説は一つ一つの章が「別れ」を描いている。秀貞と小桂子との別れ、泥棒の青年との別れ、蘭姨娘との別れ、乳母との別れ、父との別れ。「送別」がテーマソングとなっているのもそれが理由だ。ちなみに「送別」とは日本では「旅愁」という題名になっている唱歌のことである。
他にもいろいろあったが、読みながら「そういうことか」と納得し、納得するごとに忘れてしまった。つれづれにする読書ってそういうものですね。
修理の人は来たのかな?
返信削除そうなんですね、原作は読んだことなかったです。
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