わたしはずっと今の大学で写作の指導をしているが、そのときに思うことがある。
学習した文法を頼りに日本語の文を組み立てるタイプの子と、そうじゃなくて、文法の裏にある、文法から取りこぼした部分をセンスのようなものでくみ取って日本語の文を書けるようになる子がいるのだ。
後者の子はたいてい勉強しているというより、日本語に「接している」とでもいうべき感じで習得していく。そして、そういう子は中国語の文章もうまい。
能力の差ってこういうのをいうのだろうと思った。
うちの子どもたちは小さい時にスイミングスクールに通っていたが、運動神経が鈍いうちの子どもたちは先生がいう通りに順々に動作を覚えていって泳ごうとする。だけど、上級生が泳いでいるのを見ているだけで自然に同じように手足を動かして泳ぎ始める子もいる。
たぶん、楽器の演奏だって、ダンスだって、なんだって、そういうものなのだろう。
その理屈じゃなくて、細かい知識の積み重ねじゃなくて、全体から全体を感じ取って自然に自分でも表現できるというのが才能なのかもなと思う。
ほー、フクロウさんの負け。
返信削除なるほど、なるほど。
返信削除「能力」と「才能」を分けて、前者タイプを「能力」組、後者タイプを「才能」組とすると、私の場合、絵は才能ないので、1つ1つ知識をもとに練習して積み上げて能力つけるのが向いていて、国語はわりと才能あって、本を読むのが苦じゃないし云々、だったかな、と思った。
「才」は「天賦の才」というくらいだから、「運」で持っていて、「能」は磨けばレベルが上がっていくようなイメージ?
「磨く」=努力する、ですね。あの文脈だと、「磨く」遺伝子がない人もいる、ってことだったけど。
ひとまず平凡な猫です。
返信削除ひとまず才も能も関係のないコパです。
返信削除あ、運も磨くもないか、、