昨日は、昼前から「金陵十三钗」を読み始めたらやめられなくて終に読了。
映画と小説では設定がずいぶん違った。
映画では、納棺師として教会を訪れたアメリカ人が義侠心にかられて少女たちを守るヒーローになるという
現実にはあり得ない感じの設定だが、やはり小説ではこんな人物は現れず、もともと教会にいた西洋人の神父と副神父が少女たちを守るのである。こんな安っぽいハリウッド的改変をしたのは、張芸謀がアメリカ受け、もしくはオスカー受賞を狙ったから?
そして小説では、神父自らが「純粋な少女たち」の代わりに「もはや純潔ではない娼婦」を差し出すことをあまり葛藤することもなく決意するのである。
招かれざる客である娼婦たちが、教会という神聖な場所で、これもまた無理やりに教会に紛れ込んだ軍人や教会のコックの劣情を煽り立て、副神父までがよろめいてしまうのだから、まあそれも当然という流れとなっている。しかし、イエス・キリストは遠藤周作が言っているようにそうした虐げられた弱いものこそ憐れむのではないだろうか。そんな考えでいいのか、神父?
その後、神父が娼婦たちにその話を切り出す前に、娼婦たちが自ら犠牲になると言い出すことによって、小説の中では彼女たちが神聖で尊厳あるものとして読者に印象づけられるから、まあ、神父がいったんはそう考えたとしてもいいでしょうと作者が考えているということなのだろうか。
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